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手術のこと、入院のこと④ [思い出]

入院してから4か月を過ぎたころからリハビリが本格化する。手術の痛みが第一派とするならばリハビリは第二派だ、まず最初に落ちた筋力、体力を戻す訓練特に太腿が重要、これはエアロバイクや筋トレが主となる、これは痛いわけではない。次は尖足に対して、足首を90度近くまで曲げっる訓練、すでにアキレス腱と足底の腱が縮んで10度くらいまでしか曲がらなくなったものを延ばすのだが、これが痛い。アキレス腱の延長手術までやって足先の高い靴を履いて、柔らかくするためにパラフィンのパックをして理学療法士の方が引っ張る押す、同時に神経が通っていないので刺激を与えるために叩く。その他太腿の筋肉も手術したほうは委縮しているのでこれも、力任せに延ばす。松葉づえで階段の上り下りの練習、水中歩行練習、足の指のハンマーになったのはリハビリの対象にしてくれなかった、当時の技術では足裏の腱延長ができなかった、結局障害は残ったが今でももっつずっとリハビリをやっていたら足首と指の障害は取り戻せたのではないかと思う。痛い思いに逃げだしたからと思っている。重大事故でも快方の仕方は人それぞれ。あの時もっとと思っている障害の人は結構いるんじゃないだろうか?そうこうしているうちに2か月が過ぎ松葉づえをついて退院となった。それからも躓いたり転んだり、落ちたりしながらなんとか杖は取れて今に至る。今の障害は5級、右下肢機能全廃、全廃と言いても足はついているのでちゃんと歩ける。階段は登りはOK、下りはちょっと跳ねるので膝が悪くなった、最悪は急な登り赤かかとが着かないので足底筋がすぐ炎症を起こす。ハンマー指なので第二関節のところが靴と擦れてすぐ血が出る。まあ、その時切断という方法について絶対反対してくれた両親が残してくれた右足だから大事に付き合っていきます。
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手術のこと、入院のこと③ [思い出]

入院から3か月弱が過ぎ、始めて入浴の許可が出た、大丈夫な法の足で降りて車椅子に乗る、これが全身の筋力が落ちて腕で支えられない。体重は30キロ台に落ちているのに片一方の足が地面にくっついて離れない。足首が手の親指と人指し指で作った作ったわっかより細い、頬はこけて髪は伸び放題、まるで落ち武者。そのまま、リハビリ用プールに連れていかれてかごに入れられ吊り下げられてクレーンで水中へ。ブラシを持った看護学生がごしごし擦る、ものすごい垢が出てくる。30分以上ガシガシされて出てきた時は全身真っ赤、でも気持ちよかった。そして翌日からプールで歩く訓練、肩まで浸かってゆっくりとつかまり棒を持って歩く。少しずつ浅いほうに移していって立つ練習をしてやっと松葉づえに移行した。話は変わってお見舞いの話だが最初は重症だったので面会はできなかったがそのうち面会がOKになる。しかし冷たいもので男の友人はほとんど来ない、女の子は中学時代の同級生や高校の部活の女の子が何人か来てくれた。差し入れでうれしかったのは本、なんといっても暇だから特に長編が良かった。そして少し動けるようになると車椅子や松葉づえで他の病室に行って話をする。あるいは呼び出されて話をする、整形外科はすべてがケガではない、骨肉腫などの患者もたくさんいた、そんな人と仲良くなってある日突然いなくなったりすることもあった。また、女の子が病気になる前の写真を見せてくれたり、放射線で髪がなくなったことをウィッグを取って見せてくれて泣き崩れたこともあった。私が少しでも優しくなれたのはこの時の経験があったからだと思う。
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手術のこと、入院のこと② [思い出]

手術が終わって病室に戻っても鼻には酸素のチューブが入っており、点滴は両腕についているし、導尿用のカテテールは入っている、足には体液を逃がすためのチューブが4本刺さっている、それからしばらくは寝返りさえ打てない日々が続いた。当時の手術用点滴はとても太くて血管を切って入れるうえ布テープで留めているので痛い、20日以上続いたので今も手にあとが幾つか残っている。足の管も10日やそこらで抜けると思ったら20日以上かかった、植皮した部分は体液が漏れるしと取った部分が痒いし掻いてはいけないので結構つらかった。カテーテルは10日ほどでとれたが最初の尿の時に血尿が出てすごく痛かった。食事は手術後2日目からで最初の食事は重湯とすりおろしリンゴだった。しかし、ベットの上がすべての世界となると当然どこへも行けない、しかも全身にいろいろなものがくっついているから風呂もシャワーも入れない。4日目くらいから清拭が始まったが自分で何もできないので看護師の思うがままにやってもらった。顔も洗えない、髪は洗えないので汗と油でどろどろ、一か月ほどしてやっと洗髪車で洗ってもらったが気持ちよかったこと。この状態があと3か月続いた。最初痛くてナースコールばっかりしていた、そのうちちょっとは我慢しなきゃと思い遠慮した。痛み止めよりどちらかというと睡眠導入剤が多かったと思う。勉強くらいしておこうと教科書は持ってきてもらったが、結局痛いのとベッドの上で態勢的に難しくてあまりやれなかった。
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弥生の空に [心象のスケッチ]

まだ花は満開には少し時間があるようだ
誰もが少し浮足立って
昨日のさよならを忘れようとしている
それでも白い空を見上げて
浮かんでは消える人の姿
もしかしたら二度と会うことがない
そんなこと考えたら
沢山メールをしてみたくなった
花が咲いたら見に行こう

ただあの人にはやっぱり送れなかった
誰かが送ってくれると願いつつ
花よそれまで散らないで
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手術のこと、入院のこと① [思い出]

僕が救急車でその病院に搬送されたのは事故から半日後だった。最初に運び込まれた病院でレントゲンを見た医師がこれはここではできないと言ったからだった、そのレントゲン写真では脛骨はひざ下3センチほどで骨折して腓骨は中央部で骨折していた。どちらも筋肉の収縮で大きくずれて上方に移動していた。その医師は本当は別の大きな病院の医師でその日はその病院で診察をしていた。そして50km離れた病院へ転院が決まり、救急車で運ばれた、車が跳ねるたびに痛いと叫んでいたらしい。しかし大病院というのは名前だけ、まるで野戦病院のように12人部屋に送られた。そこで最初の処置として折れた足が萎縮しているのを牽引で伸ばそうと言うことだった。牽引と言って何をするか、かかとにドリルで穴をあけて太い針金を入れて両サイドに紐を結んで滑車で砂袋をかけて引っ張る。これがまた痛いから大声で叫んだらしい。そして、ふくらはぎの腫れが異常だったので減張手術をしたがそれでも腫れが引かない。これはおかしいと血管造影したら足の動脈が損傷していた。そこから急にあたふたと手術室に連れていかれ、あっという間に眠らされて気が付けばベットの上、薄暗い部屋には両親がじっと見つめてた。そして部屋も4人部屋に変わっていた。手術室に入ったのが確か朝の11時、今の時間は夜の3時あとで婦長さんに聞いたら手術室から出たのは夜の12時ごろで両親はずっと待っていてくれたらしい。骨折の手術でなんでここまで13時間もかかるのだろう、これも後で医師から聞いたのが、まず緊急オペだったのであまり事前に計画を立てられなかったこと、そして動脈損傷部分を人工血管にするかどうか迷ったこと、結局まだ若いので人工血管ではなく静脈を切り取って裏返しにしてつなぐことにしたこと。ふくらはぎの壊死が予想以上に進んでいたため筋肉組織の除去をしたこと。その部分を覆うために植皮を実施、逆の足の大腿部から尻にかけての皮膚を取った。膝関節から骨折箇所が近く半月板が破砕されていたのでそれを除去したこと。プレート、ボルトで固定する手術の開口部が外傷個所と重なっていた事。そんなこんなで長時間の手術になってしまったらしい。

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主夫体験の思い出 [思い出]

兼業主婦は大変だ、以前奥方が骨折した時に3か月ほど家事をしたが、最初は軽くこなせていたが途中から酷く辛くなった。体がだるくてもやらないわけにはいかない、買い物、炊事、洗濯、後片付けその他手続やらいろいろ。奥方の足の代わりのサポートや在宅勤務の書類の発送や受け取り。仕方がないのはわかっているが、あれこれと言われるとがっかりしてしまう。でも、ケガは時間が解決してくれる、そう思えば永遠ではないのがわかる。大げさかもしれないが、糖尿病と双極性障害とおとなのADHDを大事に抱えている私にとっては結構大変な3か月だった。治ったらまた家事は洗濯とたまの炊事になってしまったけれど。
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低体温 [弱音]

昔は平熱が37度近くだったのに今は35度台に落ちた。こうなると基礎代謝が大きく減って痩せない、原因の大きなものは運動不足。そして、自律神経の乱れと食事のバランスと言われている。しかし、半年くらいで急に下がるものなのだろうか?そして、症状は風邪そっくり頭痛、寒気、悪心、下痢、筋肉のこわばりと筋肉痛だ。体の芯を冷やしすぎということもあるらしい、たしかに冷たい水を大量に飲んでいる。ただ、ビタミンやミネラルは過剰ともいえるほど摂取している。多分持病が多いから薬の複合作用が出いるのかもしれない。とにかくがっかりだ。
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CPAPしてもだめ、眠い脳がダメージかな [弱音]

最近ちゃんとCPAPしているのにやたら眠いぞ。ちょっと導入剤(ベンザリン)を飲んだら更に酷くなった。マイスリーでも同じような感じで頭の中に雲の巣はったかんじがする。カフェイン摂ってシャキッととするけれども全く効かない、コーヒーもお茶もエナジー飲料も効果なし。頭痛のような症状もあるけれど脳血管障害ではないと思う、痺れや麻痺もない。電車でも寝てしまうし家でもそう、ボケが始まったのかな。そういえば最近前に思ったことが思い出せないし、頭の中がスポーンと抜けた感じがするときがある。この症状は何だろう?前の回転性めまいの時とも違う、回転する感じもない。脳ドックを受けてみようかとずっと思っているけれど思いきれない。他のところはいつもドックで検査を受けているのだけれども、頭はなあ、多動性障害とかも調べてもらいたいな。病気のデパート、いや総合商社だから、なんか出てくるかな。
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汽車は行くよ3 [思い出]

私は今はSLが好きだが、子供の頃はSLも貨車もその前面が顔に見えて怖かった。踏切の前で怖くて座り込んでしまったこともある。夢にも怖い顔をした貨車に追いかけまわされるありさまだった。どこかで書いたが、機関士の人にこっそり運転席にあげてもらって説明をしてもらって汽笛を引いたりさせてもらった。それからSL好きになった、あの動輪の大きさや動き出すときの力感、懸命に坂を上るときの蒸気、どれもこれも愛おしい。そして、大分方面からくるときにトンネルを抜けていきなり鉄橋を渡るところがあり、煙を吐きながら突然出てくるときの躍動感は素晴らしかった。汽車は行くよというタイトルは南こうせつのひとりきりという歌の中に出てくる、汽車は行くよ煙はいてトンネル抜ければ竹中だ、です。私の場合は牧口だです、今は駅名が変わってしまいした。
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汽車は行くよ2 [思い出]

駅は古い木造駅舎で時刻表は黒板にペンキで書いたものだった。当時はわからなかったが時間と行先と種別(急、快、普)以外に気と列と書いてあったような気がする。おそらくは急気とあったので急行気動車だったのだろう、急気ひまわり、急気火の山、だったような気がする。列は列車で客車をSLがけん引していた。当時の客車は内装が木で扉の取っ手は真鍮だった。丸いカバー丸の下は白熱電球で暖かく車内を照らしていた。だが、何と言っても旧型客車は外のドアが手動式なので開いたまま走ることができた。足場に腰かけて足をぶらぶらさせながら乗っていた、減速したところで飛び降りることもできた、今なら考えられないが。そして、トンネルに入る前の窓閉めも当たり前のことだった。閉め忘れると顔が黒くすすけてしまう、そしてあの石炭の燃える匂いが立ち込める。熊本との県境区間や阿蘇の立野などでは登れないのではと思えるほどあえいでいた、阿蘇の重連は名物でもあった。汽笛の音も哀愁を帯びて、特に最終列車の汽笛はなんだか今日が終わった感がすごかった。汽車は時計代わりのように生活の中に溶け込んでいた。
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