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いいことばかりじゃなかったけれど竹田 [思い出]

4年過ごした、正式には三年半だが竹田の街に通っていた。部活とか楽しいこともあったけれどADHDのせいで徹底して嫌われることもあった。わからない人にはわからない、だから笑って済ます。でも殆どの人がまあ仕方ないと受け入れくれた気がする。怪我で留年して一つ学年が下がると更に辛かった。でも前の学年の時と同様に僕を前に押し出す奴がいて、無理にでもコミニケーションを取らざるを得なかった。自分のためにと言うと途端にやる気がなくなる性格をうまく使われて、みんなのためだと言われると引くに引けなくなる。こんなダメダメ人間なのに、部活のリズムでいたから放課後もなかなか家に帰らない。勉強はする気がなし、後輩の女の子とくっちゃべっている時間が一番楽しかった。だからやっぱりいいことの方が多かった高校時代でした。
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驚愕 [思い出]

驚いたことがある、それは自分の40年も前の交通事故のこと。その時に行われた手術のことだ、私の傷病名は右脛骨腓骨骨折膝窩動脈損傷これは手術跡に記載されたもので、昭和54年当時の技術ではなかなか難しい手術だった。私は早朝6時半ごろに対向車と正面衝突し負傷した。そして相手の車で近くの公立病院に搬送された。レントゲンを撮って公立病院の医師が週1回来ていた県立病院尾整形外科医に指示を仰ぎ県立病院への転院を救急車でするように取り計らった。県立病院までは1時間半ほどだが鎮痛剤が弱くずっ呻き声をあげていた。病院へ着くと骨折部分の整復術の手術計画を立て翌日の夕刻と決まった。しかし患部の腫れが異常なので減張手術をして様子を見たが一向に改善しない、翌朝膝窩動脈損傷を疑い血管造影を行うと動脈損傷が判明した。そこで、主治医はすぐに血管外科の医師を呼び血行再建術を静脈接合で行い、そのまま骨折部分の整復術(その際に半月板を除去し脛骨にプレート固定)、壊死していた脹脛の大部分を除去、左足からの植皮100㎠を実施した、手術室に入ったのが10時半出てきたのが11時半、後で、あの時の患者かと言われ続けた。通常、動脈損傷から1日以上経過しており事故創傷も大きく感染症の疑いもあったため膝上切断が当時の通例であり、また術後に感染症で切断例も多かった。しかし、高熱は続いたものの抗生物質の投与などで危機を脱し、半年後に退院した。当時はどうも思っていなかったが、あの時に最初の公立病院でいたら、転院しても動脈損傷に気づかれなかったら、感染症にかかっていたら、運の集積が今のこの右足なんだなと思う。勿論、後遺症は残っているしリハビリも大変だった、しかしそんなことをはるかに超えてここにいる。世の中に膝窩動脈損傷で切断した人があまたいる中で私は運がよかったのだと。
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目の前 [思い出]

スクリーンセイバーは青い空にコキアの赤が映えるひたち海浜公園。これはいついったものだろう、コスモス畑が写っていない。5年以上も前のもの、毎年のように春と秋に訪れた、ネモフィラの写真もある。それにしても、あまりに映える写真だ、勝田まで各停で行って、そこから湊線に乗り換え、那珂湊で降りて魚を食べて、阿字ケ浦に行き、バスでひたち海浜公園へ。自転車借りて遊んで帰りには阿字ケ浦で風呂入って帰った。今年は行けるかな?
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感謝がここに(膝窩動脈損傷からの奇跡) [思い出]

驚いたことがある、それは自分の40年も前の交通事故のこと。その時に行われた手術のことだ、私の傷病名は右脛骨腓骨骨折膝窩動脈損傷これは手術跡に記載されたもので、昭和54年当時の技術ではなかなか難しい手術だった。私は早朝6時半ごろに対向車と正面衝突し負傷した。そして相手の車で近くの公立病院に搬送された。レントゲンを撮って公立病院の医師が週1回来ていた県立病院尾整形外科医に指示を仰ぎ県立病院への転院を救急車でするように取り計らった。県立病院までは1時間半ほどだが鎮痛剤が弱くずっ呻き声をあげていた。病院へ着くと骨折部分の整復術の手術計画を立て翌日の夕刻と決まった。しかし患部の腫れが異常なので減張手術をして様子を見たが一向に改善しない、翌朝膝窩動脈損傷を疑い血管造影を行うと動脈損傷が判明した。そこで、主治医はすぐに血管外科の医師を呼び血行再建術を静脈接合で行い、そのまま骨折部分の整復術(その際に半月板を除去し脛骨にプレート固定)、壊死していた脹脛の大部分を除去、左足からの植皮100㎠を実施した、手術室に入ったのが10時半出てきたのが11時半、後で、あの時の患者かと言われ続けた。通常、動脈損傷から1日以上経過しており事故創傷も大きく感染症の疑いもあったため膝上切断が当時の通例であり、また術後に感染症で切断例も多かった。しかし、高熱は続いたものの抗生物質の投与などで危機を脱し、半年後に退院した。当時はどうも思っていなかったが、あの時に最初の公立病院でいたら、転院しても動脈損傷に気づかれなかったら、感染症にかかっていたら、運の集積が今のこの右足なんだなと思う。勿論、後遺症は残っているしリハビリも大変だった、しかしそんなことをはるかに超えてここにいる。世の中に膝窩動脈損傷で切断した人があまたいる中で私は運がよかったのだと。奇跡のようなリレーで奇跡のような結果、足一本されど今もついている奇跡。
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わからない歌 [思い出]

タイトルも誰が歌っているのかもわからない。それでも口をついて出て来る、さようなら悲しい青春達、というフレーズ。大学受験に今日も街が、、、、、メロディーも出て来る、でもネットで検索しても出てこない。悲しいのがとても染み入る、フォークソングなんだろうけど、結構流行ったと思う。同じように過去に取り残された歌を歌う、古いなと歳をとったなと思いながら。哀しい哀しい哀しい哀しいですね、、、これもわからない、ネットは何でも知っている、そんな事はない。昔の音楽の教科書に載っていた、毬栗という歌も何処にも載っていない。毬栗一つ色鮮やか、、、、、わかったら良いんだけどな。
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めし [思い出]

めしがうまいかどうかは宿泊の大事なポイント。量や値段が高いではない、私が一番重きを置くのは地元の食材を地元ならではの食べ方で出してくれること。もちろん最近は東京でも地元の食べ方で出してくれる所もある。それでも、わざわざ行って食べる価値があると思うものは外せない。例えば下北の貝焼や富山の白エビ、ゲンゲ、月山の根曲がり竹、秋田のだまっこ、只見の大イワナ、長崎の飛魚、沖縄のアバサーやイラブチャー、三河湾の大アサリなど。挙げればきりがないが、宿泊先で出ないものは街へ出て飲み屋を探して歩くとやっぱりある。そういうものも含めて、旅はめしが一番楽しみ。
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夕暮れ逆上がり [思い出]

まだ夏休みが終わっていないのに、学校へ行って誰もいない鉄棒にぶら下がっていた。逆上がりをしたら日暮れの空が見えて黄昏の街に変わった。誰も僕のことが好きじゃない、やっぱり嫌われていると思いながら繰り返していたら涙が出て額を伝って落ちた。時間が過ぎても変わらない、私の悲しみの根元が枯渇する事はない。私は永遠に逆上がりを続けている。
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遠き山に日は落ちて [思い出]

夏のキャンプの定番ソングだった歌、元はドヴォルザークの新世界交響曲の第三楽章の主旋律。宮沢賢治の銀河鉄道の夜にも効果的に使われている。それにしても、何故か寂しくなる旋律はどうしてだろう。新世界っぽく無い、キャンプではキャンプファイヤーの前に歌うのだが、何故か、確かに日は落ちていく時間なのだが。日本語の歌詞もいざや楽し惑いせん、なのにね、気分が落ちて行く。そうだ、日本語のタイトルは家路だったような、不思議だね、キャンプで家路を歌うなんて。
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ちょっとした後悔の話 [思い出]

決して美人ではないしスタイルもよくないし服のセンスもいまいち
でも惹かれるものがある人と
どこから見ても美人でスタイル抜群で服のセンスもいい
なのに興味を惹かれない人がいる
自分だけかと思ったけれど世の中こっちの方が多いみたい
何故だろう何故かなどうしてかな
全部そろっているとその時点で終わっている
自分はどれをとっても並み以下と分かっているから
先に自分はないなと思ってしまう
結果的にはその通りが多いんだけど
時々公式にあてはまらないことがある
たいていそういうう時は後の祭りと言う
そう言う時のちょっとした後悔が響くんだよな
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戦いが終わった日 [思い出]

私は戦争は知らない、だが私の父は戦争に行っていた。陸軍の下士官、砲兵だった。いた場所は台湾、台湾はそれほど大きな戦闘もなく、引き上げの時も中国大陸より状況は良かった。引き揚げてからも実家が大きな農家だったので、農地改革があるまでは食料に事欠くことはなかったと聞いた。台湾時代は高射砲陣地にいて米軍の空襲に応戦したようだ。だが、爆撃機は高度が高く届かなかった、戦闘機は小さすぎてなかなか当たらなかったらしい。終わりごろになると装甲列車で台北から高雄まで護衛を兼ねて乗っていたらしい。米軍の機銃掃射に何度かあったがかすり傷で幸い済んだらしい。あの時父がいたのが沖縄だったら私はいまいないだろう。また、米軍が台湾に先に侵攻しても同じだったかもしれない。父は玉音放送を台湾総督府で聞いたらしい、聞きづらくてよくわからなかったが、戦争が終わったと言うことだけわかったようだ。呆然としながらも体から力が抜けへたり込んでしまったそうだ。同郷で招集された知り合いは南太平洋やフィリピンで戦死していたことを引き上げてから聞いたそうだ。爺さんから聞いたシベリア出兵の話のほうが酷く感じたのは寒さと飢えのせいかもしれない。
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