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貧乏の中で生きる面白さ [思い出]

貧乏を恨んだことはあまりない、ないものはないと言う割り切りがあればいい。ADHDのような症状なのにこういうとこ普通の子供より大人しかった。なんでもすぐにあきらめると言う、根気強さに欠ける部分が大きく影響している。ただ、食うためには必死で山へ川へ野原へと食い物探しに走り回った。生で喰うものは果実類、野イチゴ、モミジイチゴ、ナワシロイチゴ、桑の実、うめ、あんず、はたんきょう、びわ、びっくりぐみ、あけび、むべ、かき、なつめ、えびづる、いぬびわ、みつまた、ぽぽー、りんご、しいのみ、くるみ・・・、山菜はタケノコ、ハチク、わらび、ぜんまい、こごみ、せり、のびる、みつば、タラの芽、ゆきのした、やまいも、うるい、あざみ、あかざ、すかんぽ、やまうど・・・、川ではコイ、フナ、カマツカ、アユ、ドジョウ、ナマズ、オイカワ、ウグイ、モクズガニなどを取ってたり釣ったりした。こんなことは遊びと実益を兼ねた楽しみだった。もちろん、迷子になったり、転落したり、溺れたりと言うリスクは常にあった。でも、小学生の頃から一人で行っていた、お盆過ぎの川には河童が出て引きずり込まれるなどと言う迷信と闘いながら。当時はみんな似たり寄ったり、恥ずかしくもなかった。いつしか、貧乏が恥ずかしいことになったようだが、そんな時代でなくてよかった。私よりもっと貧しい人もいて、その子らの修学旅行代を稼ぐためにみんなで廃品回収したりどんぐりを集めて売ったりした。それを嫌だと言う子も親もいなかった、そういう時代だった。
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極貧時代 [思い出]

極貧と言っても今のフリーターよりはましだったかもしれない。家は父がサラリーマンと農業、母は近所の農家に手伝いに行っていた。子供は5人、私は末っ子だった。小さいころから他所の農家の手伝いをしながらお金をもらっていた。長男は東京私立大学、長女は東京で看護学校、次女は京都の短大、次男は高校生(のちに兄と同じ東京の私大)、私が中学生。とにかく仕送りで家計が真っ赤、私と次兄は二人ともバイトに明け暮れた(半分は家計のため、残りは自分たちの小遣い)、自分の処で米を作っているが出荷したほうが高いので米は買っていた。それでも、米を買うお金がない、これ以上つけもできない。(昔はツケができたのです)そんな時は川に行ってすいとんと魚をつかまえる。米があるときはかさましの雑炊、芋、麦など。麦も押し麦ではない、大麦そのもの。陸稲もよく食べました、今ではほとんど見ないです。学校の授業料や給食費が払えない月もありました。おもちゃを買ってもらったことは一度もありません、服はおさがりがほとんど、兄弟だけでなく近所のお兄さんのもありました。冷蔵庫がなくて恥ずかしかったです、練炭炬燵でしたし、五右衛門ぶろを焚くのは子供の仕事でした、駅にあった貯炭場の石炭をこっそり持ち帰ったり、線路に落ちている石炭も拾って帰りました。でも、実際には周りも貧乏だったので自分たちを極貧だと思うことはありませんでした。それが救いです。
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心に染み入る童謡が [思い出]

BSでよく日本の古い歌の通販で動揺が歌われているのを聞くと、その情景はもちろんそれを学校で習っていたころのことを思い出す。みなとや浜辺の歌、浜千鳥、砂山などの海の歌、早春賦や夏の想い出、雪山賛歌などの山の歌、唱歌ではないが学校で習った外国の歌、主は冷たい土の中に、峠の我が家、草競馬、森へ行きましょう、ある兵士の歌、トロイカ、一週間、サモア島の歌、ウオルシングマチルダ、ラクカラチャ、かわいいあのこは誰のもの、ブンガワンソロ、家路(ドボルザーク)、おおブレネリ・・・スポーツ少年団の行事だったり、キャンプだったりいろいろなところでも歌った。おそらくは100曲ではきくまい、歌詞もおぼろげながら思えている。はやり歌はすぐ忘れてしまうのは老化のせいもあるんだろうが、シンプル性に欠けているからだろう。今度カラオケで唱歌を歌ってみようかな。

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早稲田のこと [思い出]

不思議なもので大学の校歌など誰が覚えているだろうか。だが、早稲田出身者はいくつになっても都の西北が歌える、それも3番まで。愛校精神と言えばそれまでだがみんな好きでこの大学に来たんだなと思う。もちろん、国立大学を落ちてきたものもたくさんいる。私もそうだが、それでも入ったら好きになる。校歌だけでなく、応援歌も覚えている、野球の早慶戦やラグビーの早慶、早明戦は必ず行った。卒業してもしばらくは通っていた。だから、紺碧の空や早稲田の栄光、早稲田の健児、ひかる青雲、精悍若き、人生劇場と覚えてしまった。あの日スタンドで声をからしてワセダと叫んでいたのは若き自分だった。校舎も新しくなり、安倍球場もなくなって、お店も変わっても早稲田はワセダ。
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夏の当たり前 [思い出]

ゆらゆら陽炎立ち昇り
草いきれむんむんの農道を
Tシャツ一枚で走ってゆく
銀色の自転車
背中にしょったリュックの中の
水筒まで煮えている
さあこれから谷間に続く
翠のアーケードを抜けて
曲がり角の木陰に自転車を止めて
沈下橋の上から滑らかに流れる川に
一気に飛び込む
白い泡が青い水の中ではじける
水底につくまでしっかり目を開けてる
冷たくてもなんどもなんども繰り返す
当たり前の川のある夏の日

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16の頃 [思い出]

あの雨雲が切れて青い空がのぞいたら走りだそう
濡れた舗装道路を滑るように
揺れる木漏れ日を体に受けて
白い洋館のタイサンボクの前まで

息を切らした君の顔がかわいくて目を逸らした
すれ違いの恋の行方も分からずに
抱きしめた16のころ
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夏休みの歌 [思い出]

夏休みと言う歌があった、吉田拓郎だ。そういえば兄がギターをかき鳴らしながら歌っていたのを覚えている。麦藁帽子はもう消えた 田圃の蛙ももういない それでも待ってる夏休み・・・、そうだったな、二番以下の歌詞もそうだったと思う。最後のひまわり夕立蝉の声も思えばそうだった。ラジオ体操や林間臨海学校、登山やキャンプ、夏休みは楽しみだった。友達に会えないけどそれは会いに行けばいいだけのこと。危ない事やケガもした、冒険をしたり、農作業の手伝いでお金をもらったり。たった意ひと月余りだったけど一年間の楽しみをぎゅっと押し込んだ、小中学校の夏休み。高校生になると部活中心に回ったから、本当の夏休みはほとんどなかった。ケガで部活を引退してから急に夏休みっぽいことが増えた、図書館で彼女と待ち合わせしたり、喫茶店でたむろしたり、ちょっと青春ぽいことやったりしました。毎年毎年濃い夏休みを演じていました。大学は昨日書いた通り、周遊券の田保でしたけれど。
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ヒスイコレクション? [思い出]

毎年のように糸魚川に行くがヒスイは全部合わせて十数個、コランダムは1つだけ、サファイア系ですけどね。でも、それ以外にもメノウや玉髄にもいいものがある。オレンジ色のメノウは磨くときれいな白い筋が出る。玉髄にも薄い青色がかったものは光にかざすととてもきれい。火成岩にも貝螺鈿をちりばめたようなものもあり、これが安山岩かと驚いた。肝心のヒスイは純度の高い物は大きさが小さく、きれいだがちょっと寂しい。かさのあるのは色がはっきりしていない、緑色の島がある程度。ザクロ石の類は多すぎて飾り石以外の入っている木箱に放り込まれている。ネフライトやプレナイトも同様、一つだけマスカット色のきれいなプレナイトがあるが残念ながら割れ目がある。あとは大きなよもぎ餅そっくりの蛇紋岩。また、増えて奥さんに叱られるかな。
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怖かった話、また? [思い出]

私の実家のそばにはよくわからない塚がたくさんありました。山道の途中、畑の中、山の中、多くの塚は古びて文字も読み取れないほどでした。庚申塔や二十三夜塔は同じ場所に沢山あるのでわかるのですが、なぜかぽつんとあるのが塚でした。伝承では江戸時代の刑場だとか落ち武者の墓だとかいろいろありました。しかし、よくわかりませんでした、そのうちの一つが同級生の家に行く途中にありました。山の上の一軒家で九十九折りの坂道を登ります、塚はちょうど中腹あたりにあるのです。夏休みのこと遊び過ぎて日はとっぷりと暮、急いで坂道を駆け下っていました。ほとんど真っ暗闇を走るのですから危険極まりない、そしてやっぱり何かに躓いて前のめりに転んだのです。それはちょうどあの塚の前だったのです。私は何に躓いたのかわかりませんでした、ただなんとなく塚の上にある碑石が動いたような気がしました。こわくなってまた喚きながら駆け降りました。家について見ると躓いた足は爪が割れてひどく擦り剝けていました。翌日もまた友達のところへ行こうと山を登っていきました。昨日はどこで転んだろうかと思いながら跡を探したのですが見つかりません。塚のところに来て碑石を見た時、驚きました、なんと碑石に泥がついていて擦った跡があったのでした。まさか、私は宙を飛んでいたのでしょうか、それとも碑石が動いて私を転ばせたのでしょうか。
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怖かった話 [思い出]

あれは中学校くらいだっただろうか、部活ですっかり遅くなって自転車で家に急いでいた。田圃の横の道路を懸命に漕いでいくと目の前を黄色い光がふわふわ飛んでいる。これはヘイケボタルだから慣れている。そして踏切の横を過ぎるとカタンと音がして信号が青に変わる、これもいつもと変わったことはない。そして列車が走ってきて汽笛を一つ響かせて駅の方へ滑り込む、これもいつものこと。そして、遮断機が上がり後ろから車が来た、とその時踏切内に白い人影があった。反対側の遮断機は上がっていたが、列車の来る前は無人だった。いつの間にと思いながらすれ違ったとき、腰を抜かさんばかりに驚いた。すれ違ったのはうつろな顔をした叔母だった。私が驚いたのは叔母は昨年亡くなっていたからだ。しかも、この踏切で事故にあい・・・、狂ったように自転車者をこいだ、振り向いた時にはシグナルの赤い光と踏切の明かりだけだった。家に帰った時には全身汗びっしょりでその日から二日ほど熱で学校を休んだ。何かの未練があったのかそれはわからない、ただ、今でも汗が出るほど怖かった。
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